四季のマーブル幻灯ノート

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お返事
すごく大好きな世界です!〜様

おにぎり君様へ〜
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05:40 | HPに関して | comments(0) | trackbacks(0) | 森ヒスイ
お返事
「甘くて冷たい氷づけの恋」を読みました。〜様
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00:53 | HPに関して | comments(0) | trackbacks(0) | 森ヒスイ
お返事
全部読みました。登場人物の中で〜様
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02:07 | HPに関して | comments(0) | trackbacks(0) | 森ヒスイ
お返事

こんにちは。これから〜様

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23:46 | HPに関して | comments(0) | trackbacks(0) | 森ヒスイ
雪です、雪!

私の住んでいる県はとても暖かいのですが、めずらしいことに今日雪が降りました。しかもうっすらと積もっています!降雪のせいで部屋の中まで息が白くなる冷たさですが、風に舞うふわふわした雪と、アスファルトの上をなでる小さな吹雪の波紋、そして白く染まった銀世界は綺麗なものです。

掲示板を設置してみました。どうぞ何でも気軽に書きこんで下さい。あなたのメッセージをお待ちしています。

20:55 | HPに関して | comments(0) | trackbacks(0) | 森ヒスイ
常識という共通言語とその限界

常識と呼ばれるマナーや思考方法に従って行動すれば、日常生活の80%から90%はうまくいくかと思います。常識はそんな便利なものですが、それでも行動や考え方のすべてを常識にゆだねてしまうのは少しマズいと私は思います。
常識的な行動で人生の80%は助けられたとしても、残りの20%に常識では割り切れない非常に重要かつデリケートな問題が集中しているため、それらの問題を常識で処理しようとすると失敗すると思うからです。

進学、就職、恋愛、結婚などの人生の岐路に関係する大問題は、世間の常識に合わせても上手く解決できません。常識は大勢の人達と足並みをそろえて行動し感覚を共有するために築かれた「暗黙の了解」ですが、進学や結婚などは極めて個人的な問題です。進学や就職をひかえてどうしようか?と迷うとき、例えば「とりあえず偏差値の高い高校(もしくは大学)に行っておけば問題ない」とか「有名企業に就職すれば問題はない」のような常識に従っていても、のちのちにいろいろ心理的トラブルが生まれる可能性が高いわけです。
なぜなら進学も、就職も、恋愛も、結婚も、その人個人の熱意や興味や愛があるかないかで結果がまるで違ってくるからです。個人的な問題に直面したとき、世間的な常識にかなっているかどうかではなく、自分自身が正しいと思うこと、自分自身がやりたいと思える判断をぜひとも下してください。そうしないと、選んだ道に何の情熱もやる気ももてず、つまらない日々とむなしい人生が延々と続くはめになります。
「両親が勧めるから」、「先生が良いと言うから」、「友達に紹介されたから」などという受動的な理由や他人の言葉で就職や結婚を決めてしまうのもよくありません。仮に彼らの提案に従ってうんざりするような日々を送るはめになっても、彼らは99%責任を取りません。「どうしてくれるんだ!」と怒っても結局どうもしてくれませんし、ましてや何千万円もの賠償金を払ってくれることもほぼありえません。

社会が円滑に機能するためには常識が不可欠で、そう言った意味では常識の価値は計り知れません。しかし、常識では解決できない問題が存在するのも確か。常識は決して万能の道具ではなく、限界があります。なので常識は他人と上手く交流するための「コミュニケーションツール」と割り切った方がいいのかもしれません。個人的な問題を乗り切る場合はコミュニケーションツールから目を離し、個人が満足するかどうかで判断して下さい。
進学や結婚のような大問題に限らず、日常のささいな問題につけても個人個人で考えてその結果を行動に反映させることは大切だと思います。自分の本心をだまし続けて常識や人の目に右往左往していても、だんだん熱意や楽しみや心のうるおいが失われてゆきますから。
常識から外れた行動をとるのは勇気が要ります。他人からうとまれたり白い目で見られることもあるでしょう。しかし、自分自身の考えと選択で日常を形づくっていくことが、ひいては他人のものではない、自分だけの生き方を形づくってくれるのではないかと私は思います。

19:15 | ふと私が思うこと | - | trackbacks(0) | 森ヒスイ
ジャンクフードばかり食べていると大変なことに

ジャンクフードのようなものばかり食べていると、そのうちジャンクフードみたいな人間になってしまうようです。ジャンクフードとは「junk:くず、がらくた、安っぽい、価値のない」と「food:食べ物」を合わせた高カロリー・低栄養価のインスタント食品やスナック菓子をおとしめていう呼称ですが、ここではジャンクフードを「価値の低い娯楽や活動」と置き換えて考えてみて下さい。そのようなジャンクフードばかりを日々摂取していると、いずれ安っぽいスカスカな人間になってしまいます。

人間は何かを見たり読んだりしても、そのほとんどは記憶から消えてしまいます。教科書の重要語句や公式ですら覚えるのに一苦労ですし、ましてやあるページの12行目の文章は何であったとか写真の細かな色形などを完全に思い出すのはほぼ不可能です。10のインプットに対して私たち頭に残るのはせいぜい1とか2くらいじゃないでしょうか。
これは勉強面だけでなく、あらゆる体験についても言えそうです。誰かと会って話していてもその細かな会話の内容やある時に思ったこと、感じたこと、周囲の細かな風景や耳に届いた音など、どれだけはっきりと思い出せるでしょうか。

インプットに対して私たちに残るものが圧倒的に少ないことを考えると、元から価値が全然無いものに触れていてもほとんど得るものはないといっていいかもしれません。価値が大きいものに触れれば記憶と心に残るものがたとえ元の1/10でも大切なことを学べますが、価値が無いもののさらに1/10が手元に残るだけでは費用対効果が低すぎます。

芸能人のうわさ話やスキャンダルばかりを扱うテレビ番組、ワンシーズンごとにころころ移り変わる世間の流行、そしてそれを追いかけただけの二番煎じ三番煎じの粗悪な商品、友達とのつながりを維持するためだけにスカスカな内容のメールを毎日膨大な数だけやりとりすること、偏見と敵意に満ちたネット上のコミュニティーサイト、現実生活にまで悪影響がでるほどのめりこむオンラインゲーム、実のない話を延々とだべり続けるだけの飲み友達などなど。
これらはまるでジャンクフードのように口当たりが良くてついつい次々と手を出してしまうのですが、時間ばかりを取られる割に得るものはあまりないのかもしれません。上に挙げたものの1つを私は数年間続けていたのですが、今から振り返ってみるとひどい詐欺にあったような気さえします。結局、悪いのは選んだ自分自身なのですが。

「朱に交われば赤くなる」、「性相近し、習い相遠し(人が生まれ持つ素質にそれほどの差はないが、生まれてから後の教育や生活や習慣で大きな差ができてくる)」、「習い、性と成る(習慣もずっと続けているとついには生まれつきの性質と同じようになってしまう)」と、習慣や環境で人間が白くも黒くもなることを教えることわざは多いです。ジャンクフードな娯楽も楽しいですが、そればかりをずっと食べ続けると栄養価の高いものを選んで食べ続けている人と大変な差ができてしまうのかもしれません。
もし過去の自分と会うことができるなら、無意味に近い悪習を続けている自分をまず木製バットでぶん殴り、椅子に縛り付けてこの文章を百回書写させます。

01:50 | ふと私が思うこと | comments(0) | trackbacks(0) | 森ヒスイ
私がお話を書く理由

その人が生きる上で強く求めるものは異性や食べ物、絵画や旅行、学問や何かのスポーツのように多種多様だと思うのですが、私の場合はなぜか「物語」でした。マンガや小説、映画やゲームなどの創作物に触れる時、そこに何かの物語があったからこそ私は多くの時間とエネルギーを費やしていたのだと思います。
この世には心を傾けるべきモノが大量にある中で、どうして「物語」が好きなのか分かりません。何かが好きという気持ちは遺伝で決まるのでしょうか、それとも環境で決まるのでしょうか。ご存じの方にぜひ教えていただきたいです。

物語を追いかけてきた道筋の途中、「これはすごい」と強く感動した作品にいくつも出会いました。それらは夜道を照らす街灯のように、暗くてぼんやりした記憶の流れの中ではっきりとした光を放っています。
ずっと昔に触れたものは細かな部分が思い出せないのですが、「良かった」という思いが記憶と強く結びつき、その作品について思い返すたびに幸せな気分になります。思うに、この感覚は初恋とか昔の恋の記憶とよく似ているんじゃないでしょうか。
大好きな作品に近づけるようなお話を書きたい。また素敵な作品に巡り会いたい。そんな理由で私は小説を書き、飽きずに創作物に触れ続けるのだと思います。

ネットが開通してフリーウェアのノベルゲームを読みまくっていた時期があったのですが、私が触れた作品の中に「Little lady」というブラウザで遊ぶノベルゲームがありました。娘の成長をテーマにした心温まる話をベースに3つの短編から成る構成で、どのお話もどの音楽も本当に素敵です。今から思えば、私が物語にはまったのはLittle ladyがきっかけだったように思います。
Little ladyの感動的なストーリーと作者のおがわ ゆきと様に心からの感謝を捧げます。私もこんな素敵なお話が書きたいです。

VN/リトル・レディのご紹介

22:48 | ふと私が思うこと | comments(0) | trackbacks(0) | 森ヒスイ
あなたの魂、何色ですか?

ブックオフのような中古書籍販売店でマンガを買うとき、手に取った本を買うか止めるかの判断基準は「絵柄にひかれるか」です。小綺麗な絵でその他大勢のマンガと大差ないもの、ありがちな萌え絵のマンガはまず買いません。買うのは琴線に触れ、なおかつ絵柄にクセがある独特のマンガがほとんどです。つまり絵に個性があるかどうかを私は重視します。絵が個性的なマンガはストーリーにも独自性が備わっている場合が多いです。
この買い方は独特の文体や世界観を展開する小説、声質や作風にクセがある独創的なポップミュージックを求める際にも当てはまります。

クセがあるので受け入れないものはまったくダメなのですが、その反面自分に合った作品は病みつきになるほどの魅力を感じて作者のファンになります。他とは一線を画す何か、作品に宿るクセとか個性が創作物の魅力に大きく関わっているのではないかと最近思うようになりました。

この魅力的な個性は「作者が自分の長所を伸ばし続けた結果」もしくは「独特の性格や特殊な環境で育ってきたことの影響」だろうと思います。他に類を見ない個性はその人でなければ出せない色、その人の色ですね。
アートはもともと個性的な仕事ですが、唯一無二の自分の武器をちゃんと持っているかどうかがファンを獲得しプロの世界で生き残っていくうえで大切だと思うのです。マンガや小説だったら面白くて当たり前、それプラスその人でなければ生み出せない独自の色が必要です。ただ面白いだけではより面白いモノを創れる人にいずれ食われてしまいますので。

自分の長所を見つけ出してそれを磨き抜くことは創作分野でなくても仕事全般で重要になることでしょう。その人が集団の中で特別視される上で鍵となることではないかと思います。自分の色を極めることは自身の才能や適職や得意分野を見つけ出す段階のさらに先の話ですので、とても難しいと思います。しかし、挑戦する価値は大きいと思います。
自分の魂の色、持ち味、他人がまねできない武器は何か。私は今それを考え、自分の小説に反映できないか模索しています。

P.S. "RECOMMEND"に「もっけ」と「魔女」を追加、それと数日中に新連載が始まります。

05:15 | ふと私が思うこと | comments(0) | trackbacks(0) | 森ヒスイ
プロ漫画家のすごさ

私は小説以外にもマンガをよく読むのですが、マンガの構造をよく分析してみると作者の技術力の高さによく驚かされます。ただ絵が上手というだけではとどまらない高度な技巧がたくさんつまっています。

人間の色々なポーズや身体の部位や服のシワをあらゆる角度から違和感なく表現するだけでも大変だと思うのですが、私が本当にすごいと思うのは話とページの構成力です。
話を面白くするためには人物同士の対立やアクションシーン、主人公側がピンチに陥ることが必要ですが、面白いマンガはほとんど全ページにわたってこれらの要素を忠実に満たしています。ページを繰る手が止まらないという状態は話の構成力がなせる技なのですね。つたない小説を書いてきた経験から言うと、面白さの要素を連続させることはかなり難しいです。
作者はそのシーンの迫力や必要度に応じてコマの大きさや形を調整し、毎回決められたページ数の中で話を展開させてゆきます。最後のページは「この後どうなっちゃうの!?」と読者に期待を抱かせるような"引き"で終わらせなければならず、最後のページに至るための各ページの構成、コマの割り振りも作者の手腕が問われます。本当に上手い作者は各ページの最後のコマで毎回"引き"を盛り込み、先が気になってどんどんページがめくりたくなる構造をとっています。ここまでくるとほとんど職人芸ですね。
さらに各話の人物のセリフも合理的で血が通っていなければならず、結末に至るまでのストーリーの流れにも無駄があってはならず、伏線や読者の予想をくつがえすどんでん返し、涙をさそう感動の結末といった話の構造にも配慮が必要です。キャラクターの外見や性格や能力も特徴的にしなければいけませんから、上記のような制約条件が重なってゆくだけ難易度はどんどん上がります。作者の負担は相当なものでしょう。
週刊連載でマンガを描く作者はネーム(ノートなどにコマ割りやセリフをラフに描いた下書き)と作画をたった数日でこなしながら、それと並行して資料集めや新キャラと先のストーリーの構想を練らなければならず、その大いなる創作能力には頭が下がるばかりです。私は子供のころ、この世で最も難しい仕事は政治家でも医者でも弁護士でも科学者でもなく、人気漫画家だと思っていました。

物語を伝えるという点では小説も漫画も同じ性質の創作物ですが、エンタメ系の小説でも漫画ほど読ませる展開にはなっていないように思われます。小説と漫画では分野が違うので両者の価値を較べることは「ご飯とパンはどっちがすごい?」のような不毛な考察になりますが、それでも「作る上で求められる技術の高さ」という限定的な点においては小説よりも漫画の方がかなり上ではないかと思います。
ちなみに私は絵も漫画も全く書けません。練習さえしたことはありません。上手な漫画が描ける人はすごいです。

20:07 | ふと私が思うこと | comments(0) | trackbacks(0) | 森ヒスイ